涙が、ただただ果てなく流れ落ちた。
体中が震え、手に持ったそれもブルブルと震え続けている。
目の前にたたずむ化け物は、先ほどまで暴れまわっていたのが信じられないほどしんと静まり、ぴくりとも動かない。
静謐な深い海の底のような瞳。
そして、彼女は矢を放った。
恋人を射ち堕とした日出会いは、まるで物語のように運命的だった。
「い、いやぁぁぁああああああ!!!!!!」
満月が煌々と輝く夜、彼女は古より生きると言われる魔物に襲われた。
すでに同じ馬車に乗っていた友人も、御者も馬も、ひと目で命はないとわかった。
「や、やあ・・・っっっ!!!」
魔物が彼女に近づく。
彼女の何倍も大きい図体を持つ魔物は、たった一歩で彼女のすぐ側まで近づいた。
触れただけで切れそうなするどい爪が振りあがり、月光に輝く。
もう、終わりだ・・・!!!
命の終焉を覚悟したその時、寸前で彼女と魔物の間に「誰か」が入ってきた。
「大丈夫かっ!?」
彼は剣を翻し、魔物と闘った。
苦戦を強いられたようだったが、彼はついに魔物を葬った。
「大丈夫か!? 怪我、ないか!?」
「あ、あなたこそ・・・、腕、腕から血が・・・」
「君はっ・・・!?」
「だ、大丈夫よ。怪我もないわ。あなたが助けてくれたから・・・」
ようやっと体の緊張が解け、感覚が戻ってくる。
泣くように微笑むと、彼は「よかった」と彼女を抱き寄せた。
二人が恋に落ちたのは、自然の流れだったのかもしれない。
*
「一目惚れだったんだ。だから必死で助けた」
不純でごめん。
彼の傷が癒え、彼女の心の傷が癒えた頃、彼はそう笑って言った。
「・・・それなら、私も不謹慎だわ。だって私、あなたが好き・・・」
彼女は彼にぎゅっと抱きついた。
幸せに涙がこぼれた。
「・・・・・・最高の気分だ」
彼は嬉しさに顔をゆるめて、そう囁いた。
全てが満たされた心地だった。
彼女はこのとき、幸せを信じて疑わなかった。
*
彼女たちに不穏な影が射したのは、恋人になってまもなくの頃だった。
彼が体の不調を訴え出した頃、彼女は街角で老いた魔女に呼び止められた。
「お前・・・、お前だよ」
「・・・わ、私?」
「ああ・・・、お前の男、腕に傷に負ったじゃろう・・・」
ぞっとした。
それは事実だ。彼女と出会ったあの日のこと。
「・・・昔の話よ」
「負ったのじゃな? 古の魔物であろう・・・、おお、なんと不吉な・・・」
「・・・・・・何が言いたいの!」
「知らぬのか、小娘。古の伝説を」
その魔物に傷を負わされた者は
呪いが全身を駈け廻り
やがては同じ魔物に成り果てるだろう…
「・・・嘘。デタラメを言わないで!」
「真実じゃよ。実際、その兆しは見え始めているはずじゃ」
「っっっ!!! 知らないわっ、そんなの、見えてない!」
「小娘。どうわめいても、あがいても、事実は変わらぬぞ・・・」
嘘だ! 嘘だ!
彼女は恋人のもとへ逃げ帰った。
彼は彼女の話を聞き、「そんなことあるわけない」と笑い飛ばした。
「でも、もし本当だったら、せめて君の手にかかって死にたいな」
「ふ、不吉なこと言わないでよ!」
「ごめんごめん、冗談だよ・・・」
彼は彼女を抱きしめ、「心配するな」と頭をなでた。
しかし、彼の不調は満月が近づくにつれ顕著になっていった。
そして、あの夜と同じ、満月の夜。
彼は彼女の目の前で変貌を遂げた。
見る見るうちに彼の全身を覆う灰褐色の剛毛。
爪は鎌のように長く、鋭く。歯はそのひと噛みで人間の体に風穴が空くことを確信させた。
体格も人のそれを大きく超えた彼は、屋根を突き破り、野太い咆哮とともに外に飛び出た。
あらゆるとこであがる悲鳴、絶叫。
逃げ惑う人々、飛び散る血。
わ、私達が何をしたというの。
こんな、こんな仕打ちがあっていいの。
気付かぬうちに涙が流れた。
魔物と成り果てた彼は、殺戮を繰り返している。
彼はいずれ殺されるだろう。
いつまでも殺され続けるほど、人は従順じゃない。
強さがあれば、もしくは頭を使えば、彼を殺すことはできる。
あの夜、彼がしたように。
「いくのかえ?」
いつぞやの魔女が、再び彼女の側にいた。
彼女は魔女の差し出す銀の弓矢を手に取った。
『せめて君の手にかかって死にたいな』
ええ、せめて。せめて。
誰かに殺されるくらいなら。
殺戮を繰り返す彼の前に立つ。
彼は急に動きを止めた。静まった瞳が、彼女を見つめる。
ああ、なんでこんなことに。
全ては出会ったあの日に、始まっていたなんて。
愛する人を失った世界には
一体どんな色の花が咲くだろう?
彼女は銀色に輝く矢を放った。
何度も、何度も。
彼が死に絶えるまで。
何度も、何度も。
彼女は泣きながら矢を放った。
いとしいひと。
あいしたひと。あいしてくれたひと。
ごめんなさい。
私を助けたばかりに、あなたは魔物としてたくさんの同類の命を屠り、魔物として生を終えた。
でも、どうか。
最期まであなたを愛することを許してください。
彼女は彼の死を看取ると、最後の矢を握りしめ、
そのまま自らの胸に突き刺した。
無慈悲で残酷なこの世界には、今日も鮮やかな色の花が咲き誇る。
鮮やかに、あざやかに。