ぬばたまの黒髪、透きとおるような白い肌、そして、ただ一点、鮮やかな色彩を放つ、赤い唇。
扇のような長いまつげの下に、しっとりと濡れる瞳。
彼女がその小さい鈴が奏でられるような声でつぶやけば、世界が変わる。
この国の領主の奥方は、そんな艶やかな美女だった。
しかし、佳人薄命とはよく言ったもの。
彼女は最愛の夫を残して、常世の国に旅立った。
彼女は国と国を結ぶ糸でもあった。
彼女がいるから、保たれていた均衡があった。
彼女は特別だった。
いなくなってはいけない人だったのだ。
だから。
*
「狐っ! 遅いわ!」
「申し訳ございません、御方様」
艶やかな黒髪の美女の前に、狐の面をかぶった10歳くらいの少年がどこからともなく現れた。
「葡萄が食べたい。此処に持て」
「承知致しました。しばし、お待ちを」
それもまた数秒後に、狐面の少年の右手にたわわに実った葡萄が現れた。
「・・・うむ。・・・なあ、おぬし」
「・・・いかがいたしました?」
艶やかな美女は、その見た目に似合わない幼い動作で何か言いたげに狐面をちらちらと見た。
「・・・わらわを世話するのはおぬししかおらぬのじゃ。ゆめゆめ、わらわの前からいなくなるなど考えるでないぞ」
拗ねたようにそっぽを向く。
彼女は亡くなった領主の奥方の身代わりだ。
本当はまだ生まれたての幼い精霊だが、自由に姿を変えられるところを見込まれ、領主から身代わりを頼まれた。
対外的に彼女の存在は重要だが、身内では事情が知られているため、見向きされない存在だ。
例え見た目が同じでも、彼女は全く違う存在だったから。
だから、この幼い精霊の傍にいるのは、この狐面の少年だけ。
どこからともなく現われ世話を買って出た、この正体不明の少年だけ。
「・・・安心して下さい。僕は決して、御方様のお傍から離れません」
身代わりの精霊は、ふわりと笑った。
そしてそのうち、安心したように眠ってしまう。
狐面の少年はそこまで見届けて、彼女の寝顔につぶやいた。
「・・・貴女が嫌だと言っても、一生離れてあげません」
言葉は、夜の闇の中に、すうと吸い込まれた。
207β 挑戦50題 「身代わりの夢」